澤とフジヤマ55の成長記録 澤物語

澤物語 澤とフジヤマ55の成長記録

挫折と絶望
全てを味わった大学時代

真面目に勉強して良い大学へ行き、一流の企業に就職することが人生の王道だと信じていた真面目な(笑)学生でした。しかし、高校時代に痛感したクラスメイトとの学力の差。もともと勉強はできる方だと信じていた私はその差に愕然。毎日必死に勉強し、置いて行かれないようにと食いつくのがやっとでした。そして満を時して挑んだ志望大学への入試。

結果は不合格。
他の大学は考えていなかったため、浪人して再度挑戦しました。しかし、過度のプレッシャーにより再び不合格。結果的に、滑り止めで受けた大学へ進学することに。当時は人生で初めてとも言える大きな挫折を味わいました。その反動か、大学時代は遊びとアルバイトの毎日でしたね(笑

大学時代の仲間とともに

なろうと思っていたのは
「建築家」でした

もともと故 黒川紀章さんのような建築家になることが夢だったんです。
って話すと大抵「えっ?!」って言われます。当然ですよね。

今では世界で40店舗以上も展開するまでに成長したラーメンブランドだから、若い時からそれを目指していたと言われることが多いです。だけど、実際は30歳手前までラーメン屋をやろうなんて思ってもいませんでした。

上司や同僚が「家族」

仲間の大切さを実感したサラリーマン時代

アルバイトと遊びを満喫した大学時代を終え(笑)、建築家になるべく地元の大手ゼネコンへ入社。高速道路建設のため、地方でがむしゃらに働く毎日でした。
朝から晩まで働き、働く場所も寝る場所も、そして食事する時まで上司や同僚と同じ時間を過ごす。まるで家族のような存在でした。

家族同然の仲間を尊敬し尊重し、大切にしながら働くことの重要性をこの時に学びました。それが今のフジヤマ55運営に大きく影響しているのは間違いありません。

仲間の大切さを実感したサラリーマン時代

突然、両親がラーメン屋を開業?!

高速道路建設のため平日はがむしゃらに働く毎日でしたが週末は休み。この時の楽しみがラーメンの食べ歩きでした。市内の有名ラーメン店はほぼ制覇したと思います。ラーメンオタク街道まっしぐらですね。
そんな日々が続く中、久々に帰省するため両親へ電話。そこで驚きのサプライズが…!!

「あ、そうそう、ラーメン屋、開業したから」

「はぁ?」

ですよ。
これまでずっと洋服店を営んできた両親。突然のラーメン屋開業には流石の私も受け入れるまで時間がかかりました…。しかし、もともと食べることが好きな家族。中でもラーメンは大好き。ラーメンの作り方さえ知らず、単純にラーメンが大好きという理由で開業した両親には驚きもありましたが、すごいという尊敬の念も大きかったですね。

両親が突然のラーメン屋開業!オープン当時の写真

両親の凄さに影響され
次第にラーメン業界へ歩み出す

突然の開業宣言を受けてからはずっとラーメンのことが頭から離れない(笑)
これまでラーメンオタクとして、食べ歩くことを続けていましたが、両親が大好きなラーメンを仕事にしたのを受け、「自分の好きなことを仕事にしてもいいんだ」ということに気付かされました。

ラーメンの作り方を独学で学びラーメン屋を開業させた両親。そんな両親が作るラーメンを美味しそうに喜んで食べるお客さんの姿を見ると、だんだんとラーメン業界に対する想いが強くなってきました。
それから5年後、僕はゼネコンを退職し、数々のラーメン店で修行を始めました。

「中華そば 一刻屋」誕生

数々の修行の末、ゼネコン時代の貯金と金融公庫から得た融資を元に開業準備を進めることに。5ヶ月もの間、様々な物件を探し続けました。その結果、ついに鶴舞駅すぐ横の高架下で理想的な物件を発見し、すぐさま契約。結果「中華そば 一刻屋」の開業に至りました。見つからない間は心が折れそうになる時もありましたが、探し続けることでとても好条件の物件を見つけることができました。発見から契約まですごく早かったのであっさりした記憶の方が強いですが(笑)でも諦めないということの大切さも学びました。

目指したのは
「誰も作ったことのないラーメン」

どうせなら誰も作ったことのないラーメンを。数えきれないほどのラーメンを食べ歩いてきたラーメンオタクの経験と知恵がここで役に立ちました。普通では思いつかないようなラーメンにすると繁盛するんじゃないだろうか。
ただ、突拍子もない奇抜なラーメンにしてもダメ。ラーメンの「王道」にのっとったものだけど、他では味わえないものを…。熟考に熟考を重ねた結果、行き着いたのが健康志向寄りで何杯でも食べられる「中華そば」。

修行時代から『これからはラーメン店も健康を気遣う時代が来るかも』と考えていました。
野菜を中心としたダシを使えば、より多くの人々に食べてもらえるんじゃないか。そんな想いから、豚骨や鶏ガラのダシを中心に使うという教科書的なものではなく、逆転の発想で野菜のダシを中心として、そこにコクを加えるために豚骨や鶏ガラのダシを使ったスープとしました。

「健康を食す」という想いからコンセプトは「美味健食」。
これらの狙いは見事にアタリ、多くのメディアから取材をいただきました。中日新聞や地元のグルメ雑誌。中でも反響が一番大きかったのが「PS愛してる」で取り上げていただいた時。
テレビで放送された翌日には開店2時間前から店舗前で行列ができたほど。
美味しいラーメンを作ること。これはラーメン店を持つ上で欠かせない重要な項目です。多くの人が美味しい、また食べたいと思えるラーメンを考え、創作することが極めて大切なことをこの時に実感しました。

野菜を中心としたダシを使った一刻堂・あおいの定番商品「中華そば」
野菜を中心としたダシを使った一刻屋・あおいの定番商品「中華そば」

多店舗展開のきっかけは両親のラーメン屋

1号店である一刻屋が軌道に乗り、順風満帆に営業をしていたある日、両親から突然電話がかかってきました。

「腰が痛くてもう限界だから引退する。お前、この店やってくれ」

「はぁ?」

ですよ。2回目の。
確かに父親も50歳を過ぎてからのラーメン店開業です。
しかもラーメン店は早朝の仕込みから閉店時間までほぼ立ち仕事。腰への影響は計り知れません。
話を聞いても、引退は突拍子もないことではなく深く考えてのことだとわかったので、その話を受け、一刻屋に続き2店舗目となる「中華そば 白壁あおい」を持つこととなりました。

「そのまま」よりも「2代目らしさ」を

一刻屋を別のスタッフに任せ、僕は白壁あおいの運営をメインとしました。受け継いだ当時は、父親が作る中華そばのファンとなった常連客で賑わうお店。父からもレシピを始め全てを聞いており、父のラーメンと変わらないものを提供…しているはず…でした。お客さんからは「味が変わった」という言葉が。非常に悩みましたね。
だって、両親からも変わらない味で美味しいと言ってもらえたり、いくら試行錯誤しても違うところが見つからないんですから。しっくりこない日々が続きました。

しっくりこない原因を突き詰めて考えた結果、一つの仮説に行き着きました。「店主」の顔が変わるとラーメンの味も変わる、と。
両親から突然35歳(当時)の若い兄ちゃんが店主になったら、そりゃ常連さんも大丈夫?と疑心暗鬼になってるんじゃないか、と。

そうなるといくら同じレシピでラーメンを作っても、全く同じものを提供できるわけがありません。
どうしようかと悩み、そして考えた結果、どうせなら「2代目らしいラーメンを提供しよう」と決断しました。メニューをガラッと変えてしまおう、と。まさにラーメンイノベーション。これまでの常連客が離れしまうんじゃないかと心臓バクバク(笑)だけど、同じものを提供し続けても発展はないことは明白。だからこそ、自分ならではのラーメンを提供しようと考えました。

「濃厚味噌そば」と「まぜそば」の誕生

今では定番商品の一つである濃厚味噌そばを考案。 ダシが濃厚な分、旨味がわかりやすいこのラーメンは若年層に受け、それまでは中高年層が中心だったのが、幅広い年代に好まれる店に変わることができました。
その濃厚味噌そばをもとに、さらに若年層のお客さんを広げようと考えたのが、スープがなく麺の量が多いガッツリ系のまぜそば。これが見事ヒット!多くのお客さんに来店していただき、お店は再び活気を取り戻します。

その様子がかつての常連さんの目にも留まり、再び来ていただけるようになりました。結果として父の代よりも、より多くのお客さんに来てもらえるような店へと変貌を遂げることができました。
非常に勇気の必要だったラーメンイノベーションでしたが、その時の思考と決断は今の経営にも活かされています。

  • 濃厚味噌そば
    今では定番商品の一つ「濃厚味噌そば」
  • まぜそば
    がっつり食べたい若者のニーズに合致した定番商品「まぜそば」

フジヤマ55の誕生

「白壁あおい」も軌道に乗り、1号店の「一刻屋」も順調な運営を続けるまでになりました。
安定し始めてきたこともあり、心にわずかな余裕が出てきた僕は、ラーメンオタクとしての欲求が再燃。東海のみならず、いろんな地方のラーメンをさらに食べ歩くように。
ある日、東京での食べ歩きで衝撃の美味しさに出会い、それ以来完全に心を奪われ虜になった食べ物がありました。それが濃厚豚骨魚介つけ麺でした。

麺の味がダイレクトに感じられ、スープは濃厚、コクもありガツンと旨味を感じられる。こんなに美味しい食べ物があるんだと驚嘆したのを今でも鮮明に覚えています。それからというものの、東京へ行けばつけ麺の有名店を食べ歩き。
勉強を重ねる度に、当時はまだつけ麺未開の地だった名古屋の人々にも食べてもらいたいという想いが強くなっていきました。

そこで多くの仲間にアドバイスをもらいながら、試行錯誤を幾度となく重ねた結果、納得のいくつけ麺が完成。
物件探しも、また超幸運なことに、取り壊される直前だった大須の歴史的建造物に出店の話が舞い込んできました。(しかも近くの八百屋のお姉さんから(笑))
なんと名古屋市長の手助けもあり、歴史的建造物を保存しようという動きが加速。耐震補強を施したのち、出店の運びとなりました。

あれよあれよと準備が進み、2009年の残暑も厳しい9月、フジヤマ55第1号店がオープン(現在の総本店)。オープン日には名古屋市長も駆けつけ、各新聞社さんやテレビの報道番組からも多数の取材依頼。盛大で話題性抜群なグランドオープンを飾ることができました。その結果、非常に多くのお客さんがご来店くださり、13坪の13席という小さなお店ながら、月に700万を超える売り上げを叩き出すモンスター店に化けました。

  • フジヤマ55が入る前の店舗外観
    総本店が入る建物はもともと取り壊される予定だった
  • オープン当初の様子。当時の名古屋市長 河村たかし氏がご来店されました。
    当時の名古屋市長 河村たかし氏のご協力あり、建物は保存されることに。フジヤマ55 総本店 オープン当時の様子

フランチャイズ展開の基礎となった「カナヤマ55」

フジヤマ55の成功を受け、名古屋の本山に「モトヤマ55」をオープン。がっつり食べたい学生のニーズに応えられるつけ麺やラーメンが人気となり、一躍人気店へ。出店も加速し4店舗まで拡大しました。
そうなるとスタッフの数も増えてきたため、僕としても職人としてだけでなく、経営者としても成長しなければならないと考え、経営塾へ入塾。
そこで出会った1人の経営者さんと意気投合。フジヤマ55の話をすると興味を示してくださり、そのままの勢いで「カナヤマ55」をオープンする流れとなりました。

このカナヤマ55。話をいただいてから開業までにわずか6ヶ月しか時間がないという制約があったんです。通常ラーメン職人を育てるには1年は最低でも必要でしたが、今回はそのわずか半分となる6ヶ月間。
普通であれば出来ないと思えることも、オープンを実現したいという想いが勝ち、なんとかできる方法がないかと模索を始めました。仕込みからオペレーションなど、平準化できるところは全て平準化させるなど、これまでラーメン業界が未経験だった人間を一人前のラーメン職人へと成長させられる仕組みを考えました。

カナヤマ55の準備を進めるだけでも大変でしたが、その間にもさらに2人の経営者さんから声をかけていただきました。物事が重なる時は本当に重なりますね…。結果的に、岐阜県の各務原と石川県の金沢への同時出店が決定です。
カナヤマ55と同じようにラーメン職人を短期間で育てなければなりません。「こうなったら全員職人に育てる!」と意気込む僕。

どうすれば職人に育ってもらえるか、頭をフル回転させて考えながら行動していきました。この時期はとてつもなく大変でしたが、なんとか3箇所でオープンすることに成功。
各地で一気につけ麺ブームが巻き起こり、非常に多くのお客さんにつけ麺を食べていただくことができました。僕自身もスタッフとして店舗で働くほど忙しかったですが、今ではすごくいい思い出です。
さらにはこの時に考案した仕込みやオペレーションの方法は、今のフランチャイズ展開の基礎となっています。

  • カナヤマ55のスタッフたち
  • お店の前に長い行列
  • フジヤマ55KANAZAWA

日本を飛び出し、世界へ

金山・各務原・金沢での成功からわずか数年で40店舗まで拡大。
その後も多くのご縁があり、タイを皮切りに香港や台湾、アメリカやロシアなど、多くの国々で出店を手掛けることができました。しかし、現地での食材調達やスタッフの教育など、土地が違えば文化も違う地域で、日本と同じつけ麺・ラーメンの味を保つのは非常に困難を極めました。日本とは違い、供給が安定しておらず、品質も日によって違います。
醤油・みりんといったラーメンに必要な調味料も、現地のものは品質が基準に達しておらず、それらを使ってはもちろんフジヤマ55の味は再現できません。 余談ですが、現地で売られていた醤油の名前が「おいしいしょうゆ」という名前だったのを今でも覚えています。味は…(笑)

現地の様々な業者さんに何度も足を運び交渉を重ねた結果、日本からの輸入品と現地の食材を合わせることで、コストと品質、2つのバランスを整えることができました。
おかげで日本と同じ品質のスープを作ることに成功! どうしようかと焦る毎日でしたが、諦めずに考え行動し続けた結果、良いご縁に出会えたことに感謝感謝です。

スープの次は麺。こちらも難航しました…。
現地の多くの麺屋さんに相談・交渉をさせていただきましたが、求める品質に達するものはありません。
この問題については本当にどうしようかと悩む日々が続いていました。しかしある日、日本の有名製麺メーカーがタイに工場を建設する情報が入り、早速相談・商談へ。
結果的にそちらに麺の製造をお願いすることが決まり、満足のいく品質の麺を確保することができました。進出するタイミングの重要性を改めて肌で感じる瞬間でした。

タイ進出のきっかけを作ってくれたタイ人スタッフ
タイ進出のきっかけを作ってくれたタイ人スタッフ

ジャパンクオリティーを
世界へ
その幕開け

タイのフジヤマ55店舗外観

私たちの理念の一つでもある「世界のお客様を笑顔にする」そのスタートを切る時がきました。
いわゆる「ジャパンクオリティー」をより強く表現するために、店舗のデザインも費用をかけてしっかりとしたものに。当時のタイでは、日本のラーメンを食べることが一つのステータス。
気軽にフラッとラーメンを食べに行くというよりは、レストランに食事をしに行く、という表現の方があっていた時代です。そのため、店舗デザインも日本ではしない上品なものにしてもらいました。

味・デザインはジャパンクオリティーに達しました。
次は「ホスピタリティー」。 日本のホスピタリティーは世界でも認められているほど非常に高いものです。だからこそ妥協はしないことに決めていました。

ただ日本のフジヤマ55から日本人スタッフを1人連れてきているとはいえ、メインのスタッフさんは全て現地の人々。日本国内での評判通り、タイ人は優しくいい人が多い。ただ、文化も違えば風習も違います。
仕事に対する意識も日本とは異なります。遅刻はあたり前。仕事中隙ができれば携帯を見てしまう。果ては、厨房でビールを飲みだしてしまうスタッフも居て、前述の日本人スタッフも困りはててしまうほど…(涙)

ジャパンクオリティーを世界に提供し、笑顔にしたいという想いを掲げて進出しはしましたが、全てを日本と同じように提供することは相当困難なものであり、それにこだわり続けてしまっては力尽きてしまいます。
それもあって僕は日本人スタッフに、日本でのサービスの50%もあれば及第点だよと伝え、肩の力を抜いてもらいました。

その後は現地スタッフの皆さんを地道に教育してもらい、サービスの向上に努めていくと、時が経つに連れてフジヤマ55の認知度も上がっていくのを実感。今ではタイ国内で10店舗を展開するまでに成長しています。

  • タイの店舗
    タイの店舗
  • オープン当初の様子。どんぶりをつかったシャンデリアで店内を装飾
    オープン時の様子。
    ジャパンクオリティーを体現するために、日本国内ではまずしない、どんぶりをつかったシャンデリアで店内を装飾

ここまで成長できた
最大の要因

  • フジヤマ55ファミリーの皆さんと
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  • フジヤマ55ファミリーの皆さんと

タイでの成功を受け、現在はフランス、オランダ、アメリカ、インドネシア、フィリピン、マレーシア、ミャンマーなど、フジヤマ55グループのお店を数多くの国々で出店させていただいております。そして日本国内においても40店舗を超える店舗まで拡大。今もこの成長スピードの勢いは続いています。

ここまで成長できた最大の要因。それは僕の実力…なわけがなく(笑)、これまでに出会った本当に多くの人々のご協力があってこそだと心の底から感じています。
僕1人だけでは実現することはできなかったはずです。

学生時代にアルバイトの帰りに通っていたラーメン店が無ければラーメンの美味しさに気づかなかったでしょうし、両親がラーメン店を開かなければラーメン業界に進むこともなかったでしょう。ゼネコンへ就職しなければ地方での生活において、上司や同僚が家族同然の大切な存在であることも気付かなかったはずです。

そして自らのラーメン店を開くに当たり、応援してくれた僕の家族。
そして、一緒の時間を過ごしたスタッフの皆さん、物件を紹介してくれた不動産屋さん、高品質なもの提供してくれる仕入れ先の業者さん、店舗を工事してくれた業者さん。

そしてそして、僕たちが作ったラーメンを美味しそうに食べてくださるお客様達。
誰1人欠けてもフジヤマ55がここまで成長することはできなかったと本当に思います。
この場を借りて、心より感謝いたします。

フジヤマ55は
「ラーメン寺小屋」です

  • フジヤマ55ファミリーの皆さんと
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フジヤマ55はラーメン寺小屋です。
…なんじゃそら?ですよね、きっと。
前項の通り、フジヤマ55は非常に多くの方々のご協力があってここまで成長することができました。
僕自身もラーメン職人として、そして経営者として、全ての方々のおかげで成長することができました。だからこそ、僕はビジネスとは違う視点で社会貢献できるものはないかと考えました。その結果が「ラーメン寺小屋」です。

ラーメンを通じて出会った方と共に成長するお手伝いをしたい。それがラーメン寺小屋としての使命です。
どんな人であっても色眼鏡をかけず受け入れています。去るのも自由、再び入るのも自由、というか大歓迎です。
入退室自由なラーメン屋はフジヤマ55ぐらいかもしれません(笑)

「ラーメンは大好きで自分のお店を持ってみたい、けど…」そのあとに続く言葉は人それぞれ。だけどその言葉がどんなものであっても、僕は全てを受け入れます。それがどんな理由だろうとコンプレックスだろうと、僕は愛を持って接し、そして成長する手助けをしたい。

Giverの精神を大切にしています

だから僕はこれまで培ってきたラーメン職人としてのノウハウを惜しみなく提供しています。10年もの間、楽しみながら得たもの、苦労して得てきたもの、その全てです。
何もかも隠さずスタッフさん達に伝えることで、彼・彼女らの成長につながり、それがフジヤマ55の成長にも繋がるから。これはもちろんファミリーの一員にならなければお伝えすることはできません。
だけど、一員になった瞬間からどんなことでも聞いてみてください。そんなことまで教えて良いの?と逆に不安になる人も少なくありません(笑)

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世界中で愛されるつけ麺・ラーメンにするために

これからフジヤマ55が成長していくためには、より多くの方達の出会いと協力が必要不可欠です。
それは日本をはじめ世界中の人々。境界線なんて一切ありません。現在日本でフジヤマ55の出店エリアは西は九州、東は関東まで。ですが、大きな割合を占める地域はやはり東海地方です。
まだまだフジヤマ55の名前を知っていただけていない地域は非常に多いのが現状です。世界で見ればまだまだ小さな存在。だけど、出会いを重ねていくと、その存在がちょっとずつでも大きくなれる。すると、フジヤマ55のつけ麺・ラーメンを食べていただける人も増える。そして、その味で笑顔になってくれる人が多くなれば、これほど幸せなことはありません。

自分たちが「美味い!」と誇れるつけ麺・ラーメンを日本そして世界で、愛されるものにしたい。
そのために私たちは55ファミリー(FC)を積極的に募集しております。

あなたも僕たちと一緒に、いかがですか?

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